薄く目を開けた先には、半兵衛の姿などもちろんない。
ああ我になど帰らずずっと夢現の中で死んでゆけばよかったと後悔してみたが、覚醒してしまってからではなにもかも遅い。せめてもう一度同じ夢をと願い目を閉じるも、次第に襲ってくる疼痛に邪魔をされ眠気が再び訪れる事はなかった。
明らかな二日酔いだ。
揺さぶられている訳でもなかろうにこうガンガンと視界が波打てば否応なく気持ち悪くなるというもの。
嘔吐感を堪えられずに半身起き上がり身を屈めると、ぴた、とその背に触れる手があった。
ほのかな花の香が鼻を擽り、不思議と気持ち悪さが遠退いて行く。
この花の香りはそうか、白梅(しらうめ)。
馴染みの花魁だと嗅覚が告げていた。
「慶ちゃんにしては珍しなぁ」
からからと嫌味なく笑うその仕草は、ささくれだった俺の気分をいくらか現世に引き戻してくれる。
白梅は飾らない人柄が人気を呼んでいる手練の花魁で、さらりさらりと口八丁手八丁で殿方を弄ぶのを楽しみにしている、掴み所のない女性。
だが、その様すら優雅かつ魅力的に相手方に捉えさせてしまう物腰は、もう才能としか言いようがない。
彼女にからかわれ、うまくあしらわれるのを楽しみに通う男は未だ後を絶たない。
現に自分もそうされたいがために通い続けていた時期があった。
「何年も遊場に顔出してくれへんかった慶ちゃんが」
昨日いきなり死にそうに酔っぱらって運ばれて来たから何事かと思ったと、白梅は毒なく笑う。
「……うん」
何年も確かに俺はこういう場に来なかった。
何度親しい仲間に誘われても、酒に酔っていても断り、きっぱりと遊郭遊びを止めたのは何も急に心変わりをしたからでも趣旨代えをしたからでもない。
仲間内からは男娼好きになったのかなんて囃されたが、そんな複雑な思考を持てるほど俺は賢くないし、理由なんてあまりにも単純すぎて泣けるほどに簡単なことで。
「好きな人、出来たんやろ?」
最奥を容赦なく突くような白梅の言葉に思わず涙が溢れた。
彼女の言葉は時として、なによりえげつない凶器となって人の芯を叩き折る。
それ故に人は彼女に依存するのだろう。恐ろしい話にも聞こえるが。
俺は、彼女に依存したことはなかった。
「いなくなったんやろ…?慶ちゃんがウチに被せて見てた彼の人は」
静かにゆっくりと心の臓を掴まれ、嗚咽と吐き気に襲われるがまま胸を掴み踞る。
彼女には全て露見していたのだ。
俺が彼女に依存しないのは、既に依存しかけている存在があったからで、彼女の元に通わなくなったのは半兵衛を本当に好きになってしまったのだと自覚したからだ。
知的な彼女の手の上であしらわれる事で、俺は、こういう性癖を持っている男なのだと知りたかったのだけれど。
結局、白梅にも、そういった扱いを受ける行為自体にも特別な感情など抱けなかった。
半兵衛だから嬉しい、半兵衛だから許せる、半兵衛だから愛しいのだと。
現実は己の都合のいいようにはいかない。
だって。
辛いだけの恋だと、初めからこれだけわかっているのに。
それしかないだなんて。
「死んだよ、そうだよ、はんべ、俺の、ひっ…く…知らないとこで、血吐いて苦しんで、知ってるやつに殺されて」
倒壊する崖から冷たい秋口の海に投げ出された半兵衛が最後まで想っていたのは、自らを追い詰めた小十郎や、まして薄情な存在であった俺なんかではない事は確か。
なんて凄惨な結末なのだろうと思う。
そりゃ、初めから報われない恋であることは自覚していたし、期待はしてもどこか諦めがあった。
それでも半兵衛に固執し続けたのは、一重に俺自身がそうしなければ生きていけない心になっていたからだった。
勢い余って絶縁した時、俺の胸中には怒りと憎しみしかなかったけれど、殆どを占めていたのはごく私的な悲しみで。
何故、こうなる前に相談してくれなかった、信用してくれなかったのかと。どうして誰も彼も、親友であった秀吉も、恋慕し続けた半兵衛すらも俺の事を頼って愛してくれないのだという絶望が全身を支配して止まなかった。
初恋の相手が死んだというのに、最終的に見えてきた本当の絶望は自ら信じられぬほどおぞましく、必死に首を振り見て見ぬふりをするしか術はない。
やがて自傷を繰り返し取り戻した日常は非常に味気なく、何もかもが灰色の景色に変わってしまっていた。
晴天である筈の空が、泥のような雲を浮かべ淀んだ水溜まりにしか見えなくなった。
大きな喪失と、大きな罪悪感を振り払うためにひたすら遊び歩き喧嘩に耽り、別の友情を築いたりもしたのだが、やはり、真の友情も恋慕も手にいれる事は出来ずに、やがて思い知る。
失ったものは計り知れず大切なものであった事、それを自らが捨ててしまった事。
それに気がつき取り戻そうとした時にはもう、なにもかもが遅かった。
〆〆〆〆〆〆〆
続きます。
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